いつも笑顔で!(「水平線の先にある夢」の続きブログ)

Yahoo!ブログで書いていた「水平線の先にある夢」の続きをこちらで書いています。2018以前のコメント付き過去記事はFC2ブログにあります。https://w2002moni.blog.fc2.com/

メディアの環境変化とその影響力の大きさ

日本のサッカー環境は現在すばらしくなった。
過去のことを思い出すと隔世の感がある。

1978年のアルゼンチンワールドカップをテレビで観て
「何だ?この熱狂は?」
と驚いていたころの日本はと言えば、
日本サッカーリーグはあったもののスタンドは閑古鳥が鳴くほどガラガラの状態であり、
少し盛り上がると言えば、高校サッカーであった。
この高校サッカー
当時、地元長崎では若き小峰監督率いる島原商業が毎回、全国大会に出ていた。
それでもただ走るだけのサッカーであり、静岡や関東のチームには
歯が立たず、長らくベスト8の壁を破れなかったものだ。
他の九州のチームも同様にベスト8の壁を破れなかった。
このときの放送なのだが、高校野球と違って地元のチーム(長崎県代表チーム)の
試合の放送しかなかった。ただ、準決勝と決勝だけは放送があった。
よって、関東のように大会中毎日どこかしらの試合の放送があったわけでは
なかったのだ。これは全国的に地方民放局ではそのようなものだったと思うし、
現在もそうかもしれない。このような状況だったので地方ではサッカーが
不毛地帯になるのは致し方なかったと思う。
野球は高校野球も全試合、熱戦を観れるし、プロ野球だって巨人戦だけど
毎日のように放送されていたので、子供たちの夢が野球のヒーローに
なるのは仕方なかったのだ。
輪をかけて漫画の影響も大きかった。
当時のスポーツ漫画と言えば「ドカベン「キャプテン」「プレイボール」
「しまっていこうぜ」「野球凶の詩」など野球が人気であり、
それを見るためにジャンプやチャンピオンを買っていたようなものだったからだ。
こんな環境では、サッカーに夢を見る子供など出てこなくて当然の時代であり地域だった。
(長崎やその他の地方都市、静岡、関東を除く)

では、このような状況から、どのような経緯で今日のようなサッカー隆盛の時代になったか
振り返ってみたい。
まず、漫画の世界では「キャプテン翼」が始まった。
連載が始まったのはいつごろだっただろうか?
今、ウィキペディアで調べると1981年からだそうだ。
やはりというか、僕が1987年のアルゼンチン大会を観た後、
あの熱狂がNHKの夜のスポーツ番組「スポーツアワー」で毎日伝えられてからのことだった。
連載の最初のころはワールドカップを夢見る翼少年ということで
そのワールドカップのすごさがいたるところで紹介されているのがわかる。
あの漫画は三浦カズ中田英も見ていたようだ。
子供にとっては夢を見るために大きなモチベーションになるのだ。
この辺のことはシュタイナー教育とのかかわりがでてくるので別の機会に考えたいと思う。

その後、1982年スペインワールドカップがあった。
このころはすでに僕はアンチ南米だったけれど、
ジーコファルカンソクラテストニーニョ・セレーゾが織り成す
華麗なサッカーを復活パオロ・ロッシハットトリックが打ち砕いたのが印象に残る大会だった。
また、アルゼンチン大会に続きスタンドや町の中は熱狂的であり、
「イタリアvsブラジル」の行われたバルセロナのサリア・スタジアムには
今では見られない自由席のゴール裏で大騒ぎするイタリアサポーターの姿があった。
年齢のせいもあるのだろうが、あのアルゼンチン大会やスペイン大会のときのような
熱狂度や興奮はその後の大会では僕は感じない。
最近、サッカーを見始めた人の中には、日韓大会などで感動した人もいるようだけれども
僕はあのころの興奮には到底及ばない。
チケットが全席指定席になったことも影響しているし、ラテンの国のような陽気さもないだろうし、
それに僕も見慣れているのもあるし、年も取って感激しにくくなったのだろう。

このスペイン大会を過ぎても日本ではサッカーはマイナースポーツのままだった。
その後、1986年にはメキシコワールドカップがあった。
マラドーナプラティニルンメニゲジーコらが有名になり
来日もしたけれど、そのときに少しだけ話題になっただけだ。
その予選では日本も最終戦で韓国に勝てば出場というところまでこぎつけたけれど
やっぱり日韓での国民の関心の高さは歴然としたものがあった。
当時の放送で言われていたのは
(このときの放送の解説者は松本育夫さんで実況は山本浩アナだった)
韓国では道でその辺のおばちゃんに聞いても自国の韓国選手だけでなく
日本選手のプレーの特徴まで言えるくらい関心が高かったという。
片や、日本では、当時のサッカーフリークでも韓国選手のイレブンの名前さえ
言える人は皆無の状況だったと思う。まあ、韓国は日本より人口も少なく
全体主義的なところが今でもあるのでそればかりではないけれども
あまりにも温度差が大きかった。

その後、僕は上京してイタリアワールドカップの予選を香港まで観にいった。
あいにく、天安門事件の影響で延期になったせいで試合を見れなかったけれど、
貴重なサッカー仲間と出会い、今の僕のカミさんともこのとき出会ったので
今の東京での生活の基盤となった。
香港のホテルでのツアー仲間との語らいでは、10年以上前のあのパスとか
とにかく日本でサッカーがマイナースポーツだったころにフリークだった人達だけ
あって話しは弾んでとても楽しかった。
帰ってきてからは、その仲間が仲間を呼び、草サッカーチームを立ち上げたり
サッカー観戦に行ったりという楽しい毎日になった。
日本サッカー後援会に入会し、日本で行われる試合ほとんど全て(当時はトヨタカップ
でさえ、無料入場の特典があった)を無料観戦できた。
それだから、週末ごとにガラガラのスタジアムに通った。
当時は完全に日産と読売クラブの時代でその2チームがからまないカードの
試合内容はとにかくひどかった。
ときには青春18切符で一人で浜松の都田グラウンドに行ったり
(当時、本田のホームゲームで使われていたけれど、
行ってみてただの練習場に3段ぐらいのお情けの
スタンドが付いているだけで原っぱで日本リーグをやっているようだった)
宇都宮あたりまで行ったりと1日かけて一人旅でのんびりしていた。
当時は試合後、近くのレストランで試合内容や選手の批評をしていると
後ろに座っていたりして気まずいこともあった。
そんな風景だった。

1990年のイタリア大会のころには既にJリーグの準備は最終段階になっていた。
僕はこの大会からワルドカップを生観戦するようになった。
それでも、日本ではさして大きなムーブメントは起きていなかった。
少し兆しが見えたのはJリーグができる前年の1992年だろうか?
日本代表がダイナスティカップアジアカップで優勝し、
リーグカップが始まるとこれまでの日本リーグとは激しさが違うサッカーが展開された。
そして、1993年のJリーグが開幕になった。
1990年ぐらいだっただろうか?
サッカーダイジェストの投稿記事で「日本サッカー将来の夢」というような内容
だったと思う。
「日本代表は毎回、ワールドカップ本大会に出場し、
日本中にきれいな芝生のスタジアムで国内リーグが毎週満員で熱戦が繰り広げられる。」
というような文章を見ていて「これはぜったいに夢物語」と僕は思って現実的には
考えられなかったけれど、想像して目頭が熱くなった。
そのころは閑古鳥の鳴くスタンドばかりだったから。。。

Jリーグ開幕試合が夜7時台にNHKで生放送され、次の日も
各地で熱戦が繰り広げられた。マスコミも大きく扱った。
僕ら昔からサッカーを見ている人にとっては特に試合内容がどうということはなかった
のであるが、一般の人には違ったようである。
開幕直後に聞いた話しの1つには
「昨日、初めてサッカーをちゃんとテレビで見たけどおもしろいね~(開幕戦のこと)」
僕はこれを聞いて、「そうか、一般の人はサッカーの真剣勝負を観た事がないから
人気そのものがでないのか」と思った。やはりNHKのゴールデンターム放送というのは
大きかったようだ。
僕は、その開幕戦の前のセレモニーの演出で、Jリーグ参加10チームの巨大フラッグが
国立競技場の上から降りてくるのを見ていて涙が溢れてきたのを覚えている。
本当に感動的だった。
それからというもの、すごかった。
特にリーグ後期のチケット売り出しのときの混乱がそれを物語っている。
前日、早朝から並んで、1番の人でも鹿島スタジアムの試合が取れない。
どこかのおじさんは「Jリーグならどの試合でもいいから取って!」と叫ぶ。
順番通り発券せずにケンカが起こったり大変だった。
後期全ての試合は半日ほどで売り切れたのではないかと思う。
こんなことは世界中探してもないだろう。
そして、このころは「毎週、満員で活況を呈する国内リーグ」となり前出の投稿記事
の内容がたった2、3年後には現実のものとなった。
今では、「毎回、自国は出場するワールドカップ」も実現されている。
その後、「ドーバの悲劇」あり、「ジョホールバルの歓喜」ありと歴史を積み重ねた
わけでその間に、スカパーやWOWWOWなどでのサッカー放送の充実もなされた。
これは視聴者あってのものだ。
僕は全てはJリーグ開幕がターニングポイントだったと思っている。
それに呼応してメディアが取り上げ、それを見て少年たちが夢を持ち、
競技レベルも上がっていく。好循環になったのだ。

昨日、スカパーの「日本サッカーFAIRPLAYの記憶、vol.2長沼健」を見ていたら
Jリーグを作るとき、サッカー協会内で葛藤があるたびに
「韓国に負け続けていいんですか?」
だったのだそうだ。
これが、いつも殺し文句となりプロ化へ邁進していった原動力になったという。

今では世界中のサッカーが24時間テレビで観られる。
芝生のきれいな巨大スタジアムも多くできた。
サッカー専用スタジアムもかなり多くなった。
サッカーのグッズも街に溢れている。
サッカーの話しも大抵の人には通じるようになった。
本屋にはサッカー雑誌や単行本も読めないくらいあり、サッカー新聞も
発刊されている。サッカーくじもある。
本当にすごい環境変化だったと実感する。

いつの日か日本には全国にスポーツクラブが整備されて、
ドイツのスポーツシューレのように身障者でもスポーツを楽しめる環境が
できるのだろう。
そして、日本がワールドカップで優勝する日もくるのだろう。
それが、1996年、今年でもいいじゃないか。