いつも笑顔で!(「水平線の先にある夢」の続きブログ)

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アメリカW杯を迎えようとしていた頃


1994年、アメリカW杯が始まる前の春、
僕は入社以来初めて他部署への移動になった。
もう最後のころは職場環境が悲惨な状況だっただけに移動の申し入れをやっと聞き入れてもらえての念願の移動であった。

部署を抜けたのは、3月だったと思う。
移動前の部署を抜けるちょっと前に新人研修の講師を命じられていた。
最初は、移動前の部署の直属の上司が講師を受け持つ予定だったようだ。
それが、ちょうどその時期に僕が部署を抜けるのでその上司が僕を推薦して決まったとのことだった。
まったく余計なことを言ってくれたものである。
(推薦したのは自分がやりたくなかったという理由だけだろう)

新人研修と言っても、社会人としての行いなどではなく、その後の技術研修講師だったので、僕は教える内容の予習勉強を3月の後半からやっていた。

ある程度、知っている内容だったのであまり不安はなかった。
千葉県内で2ヶ月もの期間だったので、会社の宿泊施設に寝泊りして、週末だけ自宅に帰る生活をしていた。
先日綴ったドラマ「この愛に生きて」もこのときに見ていたものである。
研修は5時で終わり、同じビルの階上のビジネスホテルのシングルルームのような宿泊施設に寝泊りしていたものだから、余暇を楽しむ時間がそれなりにあった。

夕食も施設内で格安料金で食べることができたので食事に時間はかからなかった。
そういう毎日だから、食事後しばらくすると、周辺をジョギングしたりしていた。
部屋に帰るとベットにゴロンとなりテレビを見ている毎日だった。

当時は既にJリーグも2年目を迎えていた。
そのころのJリーグは前後期制で日程が詰まっており、毎週、水曜日にも試合が組まれていた。

ある日、食堂でJリーグを見ながら食べていると、かなり年配のおじさんが
「ちょっとテレビを野球に変えていいかな?」
と言って勝手に変えてしまうことがあった。
まあ、テレビは部屋にもあったので問題なかったが、当時はまだ、(特に年配の方々)野球ファンが多かったと思う。

それでも、僕は日本リーグ時代のガラガラのスタンドに毎週通っていたので
Jリーグ2年目あたりの世相は夢のような現象であった。
毎週、満員のスタンドで活況を呈し、その模様がテレビ生中継されるなど誰が想像しただろう?

そんな盛り上がりの中で迎えようとしているアメリカW杯本大会に日本代表が参加できないという事実はやはり気持ちの上では複雑であった。

今から考えても、当時の日本のサッカー界の流れからいくと出ておかなければいけなかったと思う。
いろんな意味で(その意味はおいおい・・・)