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加茂監督の更迭はなぜ行なわれたか?

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日本のサッカー史上、これまで病気以外の理由で監督が代わるなどというのは前例がなかった。
中東などではちょっと負けるとすぐに監督が変わったりするものの日本でこのようなことが起こるとは夢にも思わなかった。

ここで、なぜ、このようなことになってしまったのかの検証をするためもう一度当時を振り返ってみたい。

まずは、加茂監督の就任背景から

日本代表チームはメキシコW杯予選では最終予選まで進出していたにもかかわらず、
イタリアW杯の予選では横山謙三監督であっけなく一次予選で敗退していた。

実は、この後に当時日産自動車で好成績を残していた加茂周氏の日本代表監督就任が確実視されていた。
当時の故、長沼健氏の大学の後輩でもある加茂周氏は後任候補としてうってつけだったのである。
このとき日本サッカー協会内では、Jリーグ開幕を控え、川淵三郎氏の発言力が増していた頃でもあった。

川淵氏は、アメリカW杯に出るためには日本人監督では駄目だと思っていた。
それで、外国人監督を推薦していたようなのだが、
当時の日本サッカー協会は、会長が長沼健氏、副会長が岡野俊一郎氏であり、
どちらかというと保守派と思われていた。

昔からよくテレビで解説などをしていた岡野俊一郎氏などは、よく
”日本人による日本のサッカーで”
というようなことを言っていたし、日本の文化や国民性をサッカーそのものに色付けすることを好んでいたようだった。

そんな上層部だから簡単に川淵氏の意見に首を縦に振ることはなかったようだ。
しかし、日本はその当時、2002年W杯の開催国に立候補しており、
開催国選定のためには何としてもアメリカ大会に出場したいということがあった。

これがあったために川淵氏の申し出に対して上層部が
「それなら自分で探して来い」
と言ったことで、川淵氏自ら渡欧してオフトと交渉したようだ。

そして、このときはオフト就任ということになり
土壇場で加茂日本代表は実現しなかったのである。

後のゴタゴタは、ここに端を発しているのだと思う。

そして、オフトでもあと一歩というところでアメリカ大会出場を逃してしまう。

そして、フランスW杯を目指す日本代表は
2年間で2人の監督を試した後、
オフト氏との3人の中で一番よかった人を監督に据えてフランス大会を目指す、
という訳のわからない方針を打ち出している。

続いて就任したファルカンアジアカップで韓国に敗れたため解任されてしまう。
このファルカン氏、おそらく就任に関わったのも、解任を決めたのも川淵氏だったと思われる。

そして、満を持して加茂周氏の就任となる。
表向きは、外国人ではコミュニケーションが十分ではないとかという理由だったが、
これはアメリカ大会前の川淵氏と長沼氏との関係もあっての就任となったと思われる。

この当時、加茂周氏は横浜フリューゲルスの監督としてゾーンプレスを標榜して
モダンなサッカーを目指していた。
リーグ戦での優勝はなかったものの、天皇杯で優勝したので
その実績が評価されたとの日本サッカー協会からの発表だった。
付け加えて、Jリーグ以前の日産などでの実績は考慮していないとの苦しい説明もあった。

さらに、追い打ちをかける事件が起こる。
有名なネルシーニョ事件である。

加茂周氏の一定の任期が終了しようとしていた頃、教化委員会は加藤久氏、田島幸三氏らが中心になっていた。
その強化委員会の出した結論は当時ヴェルディ川崎で指揮を採っていたネルシーニョ氏で固まっていた。
そして、交渉をまかされた強化委員会はネルシーニョ氏とコンタクトして下交渉を行なっていたようだ。
その情報はすでに加茂氏も知っており、既に横浜フリューゲルスへの復帰も決まっていたという話しだ。

それから、事態は急展開を迎える。
2002年W杯招致活動で海外を飛び回っていた協会幹部が帰国したタイミングでネルシーニョ氏側の
就任条件としての報酬額を聞かされて、上層部が不信感を持ってしまう。
そもそも日本サッカー協会の上層部は三菱、古河OBで成り立っていた。
そこに早大つながりでもある加藤久氏が強化委員会に入っていたわけだが、
加藤氏は異端児的な読売クラブ出身というのがひっかかった。

読売クラブは選手もちょっとわがままな部分があり、
オーナーの読売新聞社社長の渡辺氏もJリーグチェアマンである川淵氏によく噛み付いていた。
そういう背景も関係したのだろう。

最終的にネルシーニョ氏ではなく加茂氏続投との結論を出す。
加茂氏は最初この申し出を断ったと聞く。
長沼氏みずからがが説得してなんとか加茂氏続投となったようだ。

このときの記者会見でネルシーニョ氏が
日本サッカー協会には”腐ったミカンが入っている”」
と言った”腐ったミカン”発言は当時物議を醸したものだ。

そして、加茂氏続投会見でも長沼氏は、
「W杯に行けなかったら誰が責任を取るのか?」
という記者の質問に対し、
「私が責任を取ります」
と堂々と言ったものだった。

その後も金子達人氏をはじめとしたサッカージャーナリストからときどき解任論がくすぶることがあったが、
なんとかぎりぎりでフランスW杯最終予選に突入するという状況だったのである。

そして、最終予選序盤で勝ち点を重ねることができない場合は解任といううわさが常にあったものだった。
そういう状況で韓国に負け、次の試合で勝ち点を落としたら更迭という図式が
既に長沼氏と川淵氏の間で出来上がっていたのだろうと思われるのである。

ここに至るまでには最終予選直前からサッカージャーナリストのプレッシャーがあり、
それがあったからこその解任劇であったかも知れない。

結局は国民の熱意があったからこその解任劇であり、何が何でもフランスへ行くとい
う決意の現われであったと思うのである。